when I'm in Tokyo

 僕の母親は礼儀や教養を重んじる性格である。だから僕に小説、クラシック音楽、絵画の造形をもたせようと試みたらしい。しかしとうとう僕はアナーキーでワイルドで無知に育ってしまった。この間、実家に帰った時「お前はネアンデルタール人よりもバカだ。籍を早く抜いて欲しい。博物館に寄贈しようかしら」と涙を流しながら言われた。

 

 それでも母の愛と知性と美的感覚を受け継いでいるので、国立西洋美術館に向かった。美術館に行くのはこれが初めてである。

 

 ちなみに、僕の美術の成績はかなり悪かった。僕は現代美術のフロントラインを開拓するように抽象的・前衛的な作品を提出したつもりだった。しかし中学や高校の教員程度の芸術的センスしかない者に、僕のイマジネーションは伝わらなかったらしい。あるいは僕の絵心が訓練された犬と、3歳の男の子のちょうど中間くらいしかないとバレてしまったのかもしれない。

 

 国立西洋美術館の収蔵作品は、ほとんど油絵だった。少しだけ彫刻も置いてあった。壁にたくさん絵が飾ってあるのだけれど、悲しみの聖母、ミロの「絵画」、貧しき漁夫はちょっと違うなという印象。クラスのイケメンが自然に人気を集めるのと同じようなオーラを放っていた。ついその絵の前で足を止めてしまう。

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さらに異彩を放っていたのはピカソの絵である。「男と女」というタイトルの絵だ。一見、発狂して怒りをぶつけたように見える。しかしよく見ると綿密に設計されていることに気がつく。隠し扉みたいにしてピカソの意図が落ちている。僕はしばらくこの絵を見つめていた。オーソドックスにうまくまとまっている絵も確かに見応えはある。しかし、このピカソの絵には、書き手の野生や冒険心、挑戦する勇気が感じられた。ピカソの絵を見にヨーロッパに行きたいと思った。怖くて飛行機に乗れないのでシベリア鉄道を使わざるを得ないのだが。

 

 上野の森美術館フェルメール展をやっていたのでそれも見に行く。僕はフェルメールが誰だか知らなかった。オランダ人の画家で、牛乳を注ぐ女、という絵が有名らしい。

 

 二つの美術館を比べての感想として、同じ画家が描いた作品をある程度まとめてみたほうが面白いなと思った。国立西洋美術館は時代や国籍を問わず、数多くの画家の作品を展示している。翻って上野の森美術館フェルメール展)では一人の画家に焦点を当てて作品を展示している。この違いは大きい。同じ画家の絵をまとめて見ることで、その人の絵の特徴がわかってくる。そしてその画家の性格もなんとなく浮かび上がってくる。例えばフェルメールの絵は写実的な絵が多く、そして似たような構図を用いて多くの絵を描いている。きっと繊細で注意深く、神経を一点に集中させる、そういう性格だったんじゃないかと思う。

 

 僕の性格?俺の地元の警察署には俺様専用の取調室があって、新人のお巡りは研修で俺の顔を覚えるらしい。九九の6の段までは言えるが、7の段からは難しい。毎日借金取りの猛者たちと鬼ごっこをしている。これらのことから僕の性格を考えてほしい。清く正しい好青年だとわかるだろう。

 

 

 

その日は浅草のホテルに泊まった。隅田川のほとりを歩いた。霧のような雨が降ったり止んだりしていた。日が暮れてから一人旅先で歩いている時、いつも孤独と解放感を感じる。寂しさがだんだん希望と戦闘意欲に変わってくる。大学の単位?俺が単位を取るんじゃねえ、お前が単位を持ってこい。通帳の残高?心頭滅却すればゼロが5個増えるぜ‼︎将来のキャリア?そんなこと考えてると犬のクソ踏んじまうぞ。俺様のためにに花道と檜舞台が準備されているはずだ。