gone

 


この間、サークルの新歓に行った。俺は手を振られるようにして(本当に手を振っているように見えた)大学から追い出されたので、必然的にサークルからも追い出されている。でも新歓に行けば去年の今頃の気持ちを思い出せるような気がした。死んだ彼女の墓参りに行くような気持ちだった。


1年生がバイトと楽単の話をしていた。「俺の時給1000円超えてるぜぇ卍」っていうのを聞いた時俺はいよいよ絶望した。羨ましいというか、俺には学校に行って、バイトして、遊んで、という生活の可能性がもう無いんだなと思って悲しい気持ちになった。畜生。誕生日がくる度に、若さを失い、若さ故の自由を失い、足元を固められるような気持ちになる。俺は大学を辞めたのは正しい方法だと思っている。でも我慢して大学に通っていればこういう絶望はしなくても済んだはずだ。馬鹿野郎。


講義の話をしていた。ブラック・ショールズ方程式の汎用性と限界についての講義があったらしい。昔から勉強したかった分野で、講義が楽しみなんだって。いいなあ。大学で勉強できる環境を見つけた幸せを味わってね、と思った。
大学は必修と出席確認とコスパの悪さに目をつぶれば地上の楽園みたいな場所だ。

 

 

大漁を祈る

四月になった。

 

昨日、俺様は本を読もうと思って大学の図書館に行った。新入生(のように見える人間)が本を探していた。初めて来る場所だからなのか、好きな女の子に告白した二時間後とか、合格発表の直前みたいな表情をしていたから、きっと新入生だと思う。パズドラよりシステム英単語twitterより青チャート、みたいな真面目そうな男の子だった。

 

きっと本を探しに来たのだろう。しかし「女性司書の25.3%はまるで1000年に一度だけ咲く花のように美しい(野菜総合研究所)」というデータがあるので、助平心を満たすためにやってきなのかもしれない。あるいはただの方向音痴で、まるで舵を失った船のように迷い込んできただけかもしれないのだが。

 

大学の図書館は普通の公立図書館と違って、学問的な本がたくさんある。だから高校のお勉強とちょっと趣が違う、大学の学問への期待を抱いたかもしれない。

 

マジで彼が本を探しに図書館に来ていたとしたら、彼は大学の授業に絶望してしまうだろうと思った。大学の講義は本に書いてある事柄を教授が音読しているだけである。「読書量が多い学生がこの事実に気がついて、読書量が少ない学生はこれに気付かないで、講義の質の優劣にも関心がないし、学費の費用対効果を疑うこともない」という仮説がある。

 

ただ大学を中退するのは考えものである。厚生労働省か税務局だかのHPに高卒者と大卒者の平均給与の箱ひげ図が載っていた。高卒者の給料はまるでトンカチで叩かれたように低く、大卒者の給料はケツを押されて木に登ったデブのように高い。さらに、高卒者は40代以降の昇給がほとんどないのに対して、大卒者は給料が上がり続ける。

 

つまり大学を中退してしまうのは相当なリスクを伴うのだ。そもそも「リスク」とは下方に振れる可能性と引き換えに、上方に振れる可能性を手に入れる、みたいな意味である。平均年収という点において、高卒者は単純に不利なだけである。平均給与が下がるだけで終わってしまう。大学を辞めるのはリスクがある、というより大学を辞めたら稼ぎが少なくなる可能性が相当に高い、というだけである。

 

大学への投資はリターンが大きく、ボラティリティも小さいはずだ。だから日本学生支援機構は学位の割引現在価値、学位への投資のリターン、ボラティリティ、偏差値とリターンの相関とかを研究して、奨学金を営業すればもっと儲かるだろう。

 

これがマクロ的に見た場合の考えで。

 

 

大学に行かないで働いている友達が、ボロ雑巾のような服を着て、雨の日だけ体を洗い、競うようにカラスと生ゴミを喰らっている、ということもない。高卒者が人生のあらゆる局面において不利で、大学を卒業できればまるで動物園のパンダみたいに愛されるということでもないのである。そもそも世の中の人間の半分は大学に行っていないのだ。一部界隈ではセンチメンタルに大卒者を愛して、求めあっているみたいなのだけれど。

 

ある種の研究者がまるで山賊に村娘をさらわれたような口ぶりで高卒者の不幸を叫んでいるのだが、知り合いの高卒者を思い出してみるとまぁ楽しそうに暮らしている。

 

 

だいたいにおいて、(僕が社会を甘く見ているのかも知れないのだが)高卒だから金を稼げないとか、黒ギャル巨乳のセクシー美女と付き合えないとか、夕飯がソース・マヨネーズ丼だとかいうのは言い訳である。

 

 

戦艦大和が沈没した時、その乗組員のうち269名は生き延びたのである(269/3009だから生存率は8.9%)。翻って、相手を椅子に縛り付けて戦うボクサーのように有利たったアメリカ軍の戦闘機は戦艦大和に3機撃墜されたそうだ。

 

 

俺もちょっと状況が厳しいなと思うことがある。そういう時俺は、船が沈んでも生き残る者が存在する、という事実を思い出すようにしている。

今日だけは雨を降らせてくれ

高校の授業といえば、NHK教育放送の中でも一番間の抜けた番組より面白くないことでお馴染みである。だから俺は授業中の暇つぶしとして本を読むようになった。それまでは本など読まない人生で「お部屋にこもって本を読むような奴はまるで服を脱がないグラビアアイドルのようだ」と思っていた。高校に入ると、修行か拷問のように退屈な授業よりも本(特に小説)の方が面白いと気がついて、僕はしっかり読書をするようになった。

 

ただ、正直なところ僕の読書量はかなり不足しているという印象で、能力が高い方達はもっとたくさん読んでいると思っている。だから今年の目標はアイドルの写真集に穴が空くまで読み込もうと思う。

 

 僕の高校はごく簡潔に表現すると自称進学校である。課題の提出が遅れた者から延滞料金を徴収して、その金でまた新しい教材を買ってくるという恐ろしいシステムがあって、毎晩僕はまぶたにキンカンを塗りながら勉強したものである。

 

当然合格体験記も配られる。先生に盲従して勉強に励めば、試験中に先生が憑依してきて合格できるとか、勉強をやりすぎて疲労骨折してしまったが、痛み止めを飲んで勉強を続けたとか、そういうことが書いてあった。

 

太閤記を読み終わった。豊臣秀吉が天下人になるまでのシンデレレラストーリーである。ちょっと人生の合格体験記みたいなところがあるような気がしないでもない。

 

秀吉と他の武将を対比しながら読んでみると彼が天下人になれた理由、あるいは他の武将(柴田勝家明智光秀織田信長)が天下統一できなかった理由がわかると思う。

 

それから司馬遼太郎の小説を読むと往往にして似たような気持ちを抱く。

 

人生の結末は各々の才能に依存する、よって 人生がハードモードになるかイージーモードになるかは生まれつきほとんど決まっている。

 

才能・能力があれば、不遇の時代が続くかもしれないにせよ、いつかは相応のポジションに収まっていく。

ぶっちゃけ「年収1000万のビジネスマンは毎朝母親のケツにキスをする」とか「起業するなら札束の枕で眠りなさい」みたいなビジネス書よりも司馬遼太郎歴史小説の方が勉強になる。

 

同じ時期に読んだのが村上龍のオールドテロリストである。老人が衰退し続ける日本に怒りを抱き、テロを起こすというストーリーだった。この小説には現代の上流階級が登場する。例えば高級官僚とか、金が余って仕方がないので止むを得ず月に行くことにしたとかである。そういう人たちの実際の生活が垣間見て、まるで翼を失った飛行機のように金欠の僕は、人生の理不尽さに打ちひしがれて、川へ入水して楽になってしまおうかと思った。

正直なところ、半島を出よとか愛と幻想のファシズムの方がストーリーの綿密さとかリアリティーという点で面白いような気がしている。

 

2ヶ月くらい前に読んだ本なのでちょっと感想をよく思い出せない。ただ優秀な人たちは本をたくさん読んでいて、それぞれの本を自分の視点で解釈していることは事実である。

 

俺様も脳みそ(というか思考能力)を鍛えるためにいっぱい勉強しようと思った。しかし勉強しようと思うだけでは、まるで声を失ったボーカルみたいで意味がない。しっかり勉強の徳を積まなければ、僕は空っぽのタンカーみたいな存在になってしまうだろう。

 

 

 

 

 

YouTuberたちの群像

君は何をしている時が楽しい?

 

俺は

 

①サッカー②読書③どんちゃん騒ぎ

 

なんだけど、これは人それぞれで

 

①クマと鬼ごっこ②馬糞の収集③ゴリラと共生

 

という自然児の方もいらっしゃれば

 

①JKの靴下の標本作り②可愛いナースがいる病院巡り③死んだ美人の墓参り

 

という変態もいるだろう。

 

ただ、TwitterYouTubeを見ている時間が何をしているよりも楽しい、という人は少ないと思う。ツイートの観察に命を捧げてもいいと思う人はネットパトロールの専門家になって、世界の悪意をすくい上げてほしい。

 

ネットに張り付くよりも面白いことがあるのだ。だったらネット以外の活動に時間を使った方が、命の使い方として正しい。

 

ネットに注ぐ時間を全て読書に注げば脳みそを改良できるだろう。ネットやTVは人間を徹底的に受動的にする悪魔のような存在である。

 

でも今年のちょうどクマが冬眠から覚めるくらいの時期に、僕はネットに張り付いていた。好きな女の子に振られて、全身の血を失ったような有様でネットに張り付いていた。競馬で、単勝一本買いに全財産を賭けて負けたようなショックだった。

 

その時に見ていたYouTuberを紹介していこうと思う。

 

今僕は桜の蕾が少しずつ大きくなっていくのを見守っている。だけど、楽しかった君との思い出がまるで有能な拷問吏のように僕の胸を締め付ける。

 

東海オンエア

 

6人チームで全員が天才。智謀湧くが如しって感じだ。

 

動画が面白いか詰まらないかは「何をするか」と「誰がするか」に依存すると思っている。彼らはこの両方のレベルが高くて、企画も面白いしメンバーも魅力的だ。

 

YouTubeの企画はクイズの出題と似ている。

 

クイズ

 

銀座を裸で歩くとどうなるのか

 

男根をノコギリで切断したら女になれるのか検証してみた

 

サウジアラビアで油田を10個見つけるまで帰れまで帰れまテン

 

35年ローン組んで有馬記念に1000万賭けて、負けた男(中卒ニート)のドキュメンタリー

 

答えを知りたかったら動画を見てねΣ( ̄。 ̄ノ)ノみたいな。

よってクイズの問いと、その答えへの興味を持たせることができるかどうかが、YouTuberの腕の見せどころだ。

 

東海オンエアの皆さんはアナーキーでワイルドで意外性のある企画を産む能力が空に浮かぶ雲よりも高い。

 

そしてメンバーの虫眼鏡がプロデューサーのように、他のメンバーの個性を最大限に引き出しているという印象です。

 

 

はなお

 

君は空想科学読本を知っているか。

 

おおよそ現実では現れない現象の実現可能性を科学的に検証する本である。例えば、サンタクロースはクリスマスの日、世界中の子供達にプレゼントを届ける。その時のサンタの移動速度と一秒間に何個のプレゼントを配るか計算していた。工藤新一の体を小さくしたお薬の成分を考えたりする。これと似たようなことをやって、ブレイクしたのが彼。真面目な知識をネタに昇華するのが上手い。以上だ!

 

ところで

 

○○(ユーチューバーの名前)って何者!?

親がカビキラーを一気飲みして入院したってマジ?

彼女に振られてメロンパンナちゃんに夢中らしい!

気になる噂をまとめてみました!!!

 

こんな感じのサイトみたいで嫌になってきた。小説や映画を生産する能力が不足しているくせに、何の臆面もなく気取って偉そうに批評する奴らも嫌いだ。そういう人たちを僕はクレーマーだと思っている。

 

なんかそれと似た感じになってきたような気がするけど、俺様は売れてるYouTuberの面白さの根源はどこなのか考えたかったのである。許してね(はーと)

 

そろそろ冬が終わる。春になったと胸を張って言うことは出来ないけれど、真冬の寒さはやり過ごした。

 

僕は森で眠るリスさんたちに「もう冬は終わったんだよ」と教えてあげたいくらいだ。そういえば一年前の今頃、俺様は何をしていただろうか。

Never Let Me Go

6月

 

 

僕はまだ君のことが好きでたまに思い出す。ほらわかるだろう?君が一緒にいてくれたら楽しいのにって考えてしまうんだ。

 

確かに大学は退屈さ。ガラクタを売りつける通販番組のような授業、カエルの鳴き声みたいな話をしてる奴ら、ゴリラの愛娘みたいなブス、俺はここにきたことを後悔したよ。俺は何をしたかったんだろうって。でも親父とお袋が大学に行かせてくれたんだ。卒業しなきゃいけないって思うだろう?でもね、俺は思うんだよ。柔らかい粉雪みたいに純粋だけど一緒にいても楽しめない女の子と、悪魔のように意地悪だけど絶対に退屈しない女の子、どっちと付き合いたい?そう、面白くない奴は本当に面白くないんだ。

 

6月までは大学を卒業して見せようという気概があった。1年生の1学期に必修は20単位あった。ただ、俺のストレス耐性ではどう考えても必修科目を全て回収することはできないと思った。よって俺は「肉を切らせて骨を断つ作戦」を実行しようと試みた。

 

結局のところ、4年間で128単位集めれば卒業できるのである。つまり1学期あたり16単位取ればいいのだ。一週間で8コマ、一日1コマか2コマ、これなら卒業できそうだと思った。1年生の必修科目だろうがなんだろうが4年間かけて回収すれば卒業できるのである。1年の1学期も16単位取るのを目標にして他の科目は諦めようと思った。

 

 

しかし、次第にそれも面倒になってきてしまう。そもそも、大学に課金する必然性を疑うようなった。俺の家は貧乏である。父親は高校を卒業した後、新潟の自動車部品を作る工場に就職した。しかしリーマン・ショックのあおりを受けてリストラを喰らい、今はフィリピンの自動車工場で働いている。年収は100万ペソである。母親は書道教室の先生をしている。しかし「利き手を使わなければ行書になる」「心頭滅却すれば書もまた華麗」「壺を撫でれば心」などと意味不明な指導を繰り返すばかりで、廃業寸前であるらしい。なけなしの金を大学に払いたくなかった。

 

ただ大学に課金してもマクロ的な傾向を考えた場合、十分に合理的である。高卒と大卒では生涯収入に違いがあるからだ。短期的な支出に目が眩み、長期的な収入を犠牲にしてしまう可能性がある。

 

厚生労働省の賃金に関する統計データを参考にされたい。

https://www.mhlw.go.jp/toukei/itiran/roudou/chingin/kouzou/z2017/index.html

 

以下のような調査結果もある。大学を卒業しておいたほうが有利であるらしい。

 

 

日本の分断 切り離される非大卒若者(レッグス)たち (光文社新書)

日本の分断 切り離される非大卒若者(レッグス)たち (光文社新書)

 

 

 

学力と階層 (朝日文庫)

学力と階層 (朝日文庫)

 

 

 

あと、大学生はニートじゃないけど好きなことができる、みたいなところもあるし、大学もそんなに悪い場所じゃないと思う。

 

しかし、大学の授業料は1年間で50万である。これは専門書が一冊三千円だとして150冊分である。面白くない授業に課金するより本に課金したほうがいいと思った。実家暮らしなら大学に行かないでニートしても(少なくとも金銭的には)支障はないだろう。何より、退学すれば面白くない空間から脱出できるのだ。

 

 

授業をサボるようなると他の人間から「お前退学すんの?」みたいなことを聞かれる。俺様のことが嫌いな奴はさっさと出て行け、最初から入ってなかった、裏口から出て行け、ってほとんど追い出そうとしていた。

 

でもたまに頭のいい人がいて「2年までここにいて転学すれば?」って言われた。これが一番まともでリスクも低い選択だろう。考えれば考えるほど的を射たソリューションである。 2年間もこの大学に通い続けるのは無理だと思ったけれど。

 

 

6月29日

 

 

俺は退学しようと決心した日を覚えている。2018 FIFA World Cup Russia 日本対ポーランドの翌日である。徹夜でサッカーを見て、大学の図書館のソファーで授業が始まるまで寝ようと思った。でも寝過ごしてしまって、起きたら授業はとっくに終わっている時間だった。俺はその時に大学など辞めてしまえと思った。サッカーより面白くない授業に課金して何の意味があるのだろう。俺は実質的な意味はないと思った。

 

あの時同じ花を見て美しいといった2人の心がもう二度と通わないように、俺はこの日以来大学に行っていない。

皐月

5月

 

多分この頃はまだ大学を卒業しようという意思を持っていた。大学そ卒業するためには124単位を回収すればいい。テストはヌルゲーだと聞いていたので、単位を回収するためには授業に出席しなくてはいけない。

 

単位を出す条件に、授業への出席が含まれてる意味が本当にわからない。実際、授業に出席していても授業を聞いていない奴はたくさんいた。だいたいにおいて、授業に出席していながら授業を聞かないというのは、穴の開いたコンドームを着けてセックスをするようなものである。話を聞いていない、という点では等しいのに講義室に居る/居ないの違いだけで、単位が出る/出ないという死活的な問題に飛躍するのである。なんという不合理だろう。このような不合理に違和感を抱かない者は、水素水を買わされないように気をつけたほうがいい。そもそも、水素が欲しいのなら、水素分子の含有量が多そうな濃厚な小便を飲めばいいと思う。

 

余談なのだけれど、これは高校の時も同じだった。高校の場合、授業時数の1/3以上欠席すると原級留年を食らってしまうので、俺はしっかりと欠席字数をトラッキングしながら学校をサボっていた。サボって何をしていたのかというと、サッカーとか高校野球を見に行ったり、海で潮風を浴びたり、図書館で本を読んだりしていた。似たような経験がある人はわかると思うのだけれど、学校をサボって違うことをしている時の快感は筆舌に尽くしがたい。ザワザワと血が騒ぎ野生が芽生えるのである。正直なところ、学校を辞める最大のデメリットは学校をサボる時の快感を味わえなくなってしまう、ということだと私は思う。

 

 

とにかく授業に出席してさえいれば何をしてもいいのだと自分に言い聞かせて、なるべく休まないようにしていた。授業中は本を読んだり、映画を見たりしていた。教授の話し声がうるさいので、俺はイヤホンをつけて美しいクラシック音楽に耳をすませていた。俺が好きな作曲家はベートーベン、ショパン、バッハ、チャイコフスキである。好きなピアニストはグレン・グールドマウリツィオ・ポリーニクラウディオ・アラウバックハウスアルフレッド・ブレンデルである。彼らの音楽だけが僕の苛立ちとストレスを和らげてくれた。

 

 

ちなみに、授業がどんなに退屈でもツムツム、テトリス、将棋、大富豪などを含めてスマホゲームを俺は絶対にやらない。TwitterYouTubeも有害であると言わざるを得ない。中毒性があって脳みそを腐らせる。本能、野生、行動力などのエネルギーが奪われてしまうような気がするからだ。

 

5月が終わるまでは我慢してなんとか大学に通っていた。しかし、授業の退屈さは増すばかりで、入学したからには卒業しなくてはいけないだろうという義務感に縛られながら、退屈な講義室から逃げ出したいという気持ちの間に押し込まれていた。大学を辞めてしまいたいけれど、その後のキャリアを見通せず、どうすればいいのかわからなかった。しかし、大学のほうは「君の居場所はここにはないんだよ」と言って僕に手を振っているように見えた。

Farewell my university

人生はロールプレイングゲームだ。主人公は俺、ルールは日本国憲法、プレイタイムは80年だけど首をくくれば強制終了できる。で、俺は高校を卒業するときに以下の選択肢を与えられた。

 

A 大学・専門学校・浪人コース

 

B 就職コース

 

C 引きこもりニート無職家事見習い親に寄生コース

 

D 自殺コース

 

 

この中から僕はAを選んだ。自殺をするのは人生に絶望してからでいい。自分探しの旅に出たい、僕は今とは違う自分になりたいんだ、職業・旅人、上京して芸人を目指す、みたいなことを言って浪人しても良かった気がするけど。

 

ところが俺は大学に入ってから2ヶ月で退学すると決心した。この意味で僕の選択は間違っていたと言わざるを得ない。俺が大学に入ってから退学するまでを振り返ってみようと思う。

 

 

4月

 

ママと一緒に一人暮らしの準備をした。アパートを決めて、家具を揃えたり、引越しの費用で10万くらい飛んでいった。10万円。これは我が家にとって大金である。この金を捻出するために家族総出で血を売った。故郷から旅立つ時、僕は血と涙を流し、十円玉をしゃぶっていた。実家にいると親がちゃんと飯を食え、クロスはゴール前、球際に厳しく、などと絡んでくる。こういう雨で靴が濡れてしまうような煩わしさから解放されるんだと思うと、弾むような気持ちになると同時に、放り出されたような寂しさと不安が胸に浮かんでは消え、僕は地元のsun setを目に焼き付けていた。

 

確か入学式の前日に大学のガイダンスがあったはずだ。この時のホームかアウェイか分からず、ちょっと探りにいくような雰囲気はまだ覚えている。正直、このガイダンスは詰まらないか面白いかというより緊張してついていくだけ、みたいな感じだった気がする。

 

入学式はサボった。高校の卒業式も行かなかったし別に行かなくていいか、みたいな。ただこれは大学で友達を作るという点において失敗だったかも知れない。入学式に行くと何人か友達ができるらしい。結局僕は同じ学部で一人の友達もできずに退学することになる。

 

授業が始まった。大学の授業に期待していたかどうか、よく覚えていない。授業などは本を読めば分かる事柄をわざわざ口頭で説明しているだけのことで、真面目に聞く意味はないと思っている。高校の友達はもっと過激思想を抱いていた。まるで秘密協定を結ぶように真剣な口ぶりで「コーヒーゼリーは授業中に食べるのが一番美味しい」「授業など脳トレには何の役にも立たない。ポーカーをして智略を争ったほうがいい」と言っていた。

 

ただ、大学教授の話は面白い、みたいなことも伝聞していた。多分つまんないけど面白いといいなぁーって感じだったかな。

 

さて、実際のところ授業は本当につまらなかった。最初の一週間で、この退屈さは未曾有の経験であると悟った。詰まらないとか面白くないとか、そういう生易しいものではなく有害とか拷問とか、命を無駄にしていると表現するべきだと思う。

 

二週目でいよいよこの詰まらなさは本物だと思った。苦痛の根源である。大学の授業はストレス製造機に等しい。

 

3週目からAmazon prime video で映画を見るようになった。講義室にwi-fiが飛んでいて本当に良かった。wi-fiは命をつなぐホットラインだと思った。wi-fiが無ければ暴動が起きていただろう、ゲバ棒催涙ガスが嵐を呼んだだろう。wi-fiが運んできてくれるデーターだけが唯一の秩序なのだから。

 

俺には友達もいなかった。授業に出ているのに誰とも喋らない日も結構あった。こんなはずじゃないと思った。キャンパスには誘いかけるような日差しが降り注ぎ、僕以外の誰もが春を謳歌しているように見えた。僕は薄暗い場所に取り残されているような気持ちになった。次第に僕の心は大学からディタッチしていって、少しずつ、着実に退学に向かっていった。