猿は豊臣秀吉になった。俺は何になれるだろう。

太閤記  written by 司馬遼太郎

 

 

豊臣秀吉のサクセスストーリーである。猿発、藤吉郎経由、秀吉行き。で、猿さんが藤吉郎になったところまでの感想。

 

戦国時代の上流階級は武士である。そして武士の子供はほとんど自動的に武士になれる。腹が空いたら泥をカレーライスだと自分に言い聞かせて、雨水を酒だと信じて飢えをしのぐ家に生まれた子供が武士になるのは難しい。

 

人間の出身成分は人生におけるシード権だと思った。父親が大将なら武功を積まなくても高位から人生にログインできる。ベスト8から大会に出場するスーパーシードの選手みたいだ。そしてノーシードで、泥沼を逆立ちしながら歩くみたいに過酷な予選を勝ち抜いてキャリアパスをこじ開けてきたのが秀吉という剛の者である。

 

ただ、親の七光りだけでトップに君臨できるということはあり得ない。実際、世襲して「家老」にストレートインしてきた者、秀吉みたいに自力で「家老」にアクセスした者がいる。

 

「家老」とは織田信長の補佐をする連中のことで、今で例えるなら総理大臣を補佐する国務大臣に似ていると思う。(この本を読んで初めて知ったのだけれど、豊臣秀吉織田信長の部下であった。)そして、秀吉は織田家の家老連中の中で最も能力が高かった。だから信長が死んだ後天下を取れた。ある程度上まで行くとその先は己の能力に依存して出世の可否が決まるんだ。

 

俺はキャリアパスをこじ開けるのに必要なのは賢さと勇気だと思った。

 

脳みそがフニャフニャで、ぼんやりヨダレと鼻水を垂らしているような奴は出世できないだろう。自分がどうなりたいか分かっていて、何をすればそうなれるのか正確に認識して、実行できるだけの能力が必要だ。

 

例えば、僕は橋本環奈の彼氏になりたい。そのためには環奈ちゃんとの出会いが必要だ。だから僕は芸能オーディションを片端から受験している。あと何年浪人すれば合格できるんだろう。

 

勇気も絶対に必要だ。これがないと「ここで勝負を仕掛ければ勝てるだろう」という局面でビビってチャンスを逃してしまう。そもそも、天下統一という荒波のように激しい競争に参戦する意思を持つというだけでも並大抵の勇気では無理だ。あるいはチャンスを前にして勝負できるかどうかが勇気で、勝負に勝てるかどうかが賢さかも知れない。

 

でも勇気だけしかない奴もダメだ。旧大日本帝国陸軍のような根性第一主義の突撃型・人命軽視・念じれば花開く的精神論が通用するだろうか。しないだろう。

 

賢さと勇気を兼ね備えて登りつめていったのが豊臣秀吉なのである。

 

 

戦闘意欲をさらに高めたい、という人にこの本を勧めたい。秀吉は10代で家を失い、本当に餓死の危機から這い上がった。このサクセスストーリーを読んで自分の可能性をまだ諦めないほうがいい、自分も上を目指せるかも知れない、みたいな戦闘意欲を僕は抱いた。ミラーニューロンが刺激されたんだと思う。

 

 

本当は、マーケティングの練習のために「この本を読んでも退屈を感じる人」のタイプを考えたほうがいい。もっと思考を深化させるべきだ。俺は上質な脳みそを形成する上で、ガムシャラに本を読みまくるよりも、一冊の本について真剣に考えるほうが役に立つと思っている。量よりも質の方が大切なのだ。

 

 

新史 太閤記(上下) 合本版

新史 太閤記(上下) 合本版